国会リポート 第153号

甘利明本人が綴る、毎月2回のコラムです。国政で今何がおきているのか解りやすく解説しています。

総 覧

百年に一度と言われる公務員制度改革の柱となる、内閣人事局の設置に関する法案の提出期限が迫って来ています。

党内外には右から左までありとあらゆる意見があって、どんなに立派な改革案をまとめようとも必ずケチがつきます。その最たる者はマスコミだという事はすでに報告いたしましたが、提出期限終盤になっても『改革迷走』というタイトルが新聞紙面に踊ります。

交渉の過程で総務省の該当者が複数の業務を兼務しているという相手側の事情もあり、幹部職等の公務員の一元管理を行う内閣人事局は行革機能や電子政府推進機能まで包含するプランとなりましたが、最終的には組織が肥大化するというクレームがつき、当初の原案通り人事・組織の管理機能のみの集約という方向になりました。それにあわせて、内閣人事・行政管理局という名称も、元通り内閣人事局という名称で変更の必要なしという事になりました。

回りまわって、当初私が提案した通りの結果になった訳ですから、「迷走」どころか「理想」になったと思っております。ケチをつけるのがマスコミの仕事とは理解しているつもりですが、一度くらい褒めても良いんじゃないかと思います。

残るは内閣人事局長の位置付けという事になります。人事・組織の再配置に関する強い権限を持つ官房副長官級のポストを官房長官直属のもとに新たに設置せよという意見もあれば、官房副長官級をまた一人増やすという事は行革の精神に反するので事務の副長官に兼務させよという意見もありますし、官房副長官のクラスにせずともその下の大臣政務官 (内閣危機管理官) 級で良いのではないかという意見まで千差万別です。どれを選択しようとも、必ずクレームがつきます。

官僚主導から内閣主導へ、という事で始まった改革ですから、最終的には内閣の長である総理がお決めになれば良い事だと思います。

「公務員の政治的中立」なる言葉が人事院から発せられる事がありますが、「人事行政の公正」という文言はあっても「公務員の中立」なる言葉は憲法にも国家公務員法にも出てきません。

あらゆる政権から中立した公務員なる存在が生まれたとしたら、シビリアンコントロールの効かない軍隊のようにシビリアンコントロールの効かない公務員が出来るようなものです。国民の総意によって選出された国会議員によって構成される時の政権に忠実に仕え、政権が変われば次の政権に忠実に仕えるという事が公務員の責務なのです。独立公務員を作るような誤解を与える文言は厳に謹んでいかなければならないと思います。

人事制度の公正性とは、公務員が「成績によって採用され、能力と実績によって昇進をする」という誰にでも平等に適用される物差しをしっかりと作る事を意味します。時代の変化や世界の変化に従って取り組むべき課題は変わりますし、それが解決できる人材を登用するという事は政府がなすべき使命です。従ってこういう人材を採用し育成したいという事は、正に内閣主導で行われなければなりません。

要はその基準が適用される人と適用されない人を作ってしまってはいけないという事であって、採用する基準を内閣が作るのはけしからんという人事院の主張は「100年間同じ人材を採れ!」と言うに等しい議論に私には聞こえます。

 

今週の出来事「煙に巻いた話?

 

麻生総理は本格的葉巻派で、夕食後には必ずと言って良いほど葉巻を楽しみます。おもむろに背広のポケットから取り出すと、次いでシガーカッターを取り出し、火を着ける側を差し入れて葉巻の先をカットし、そこに火を着けます。そして、ゆったりとくゆらせます。一連の動作が茶道の所作を見ているようで、非常に洗練された英国式ダンディズムを感じます。

そういえば、戦後処理に GHQ と渡り合った白洲次郎氏は、麻生氏の祖父吉田茂元総理に仕えた影響か葉巻をくゆらせるシーンがドラマに出てきますが、そのイメージとダブってきます。(褒め過ぎ?)

白洲次郎は最高権力者マッカーサーに対して、「日本はアメリカに降伏はしたが、アメリカの奴隷になった訳ではない。」と言い放って、GHQ の言うとおりにならない唯一の日本人と言わしめた事でも有名です。

そういえば、昔、貴族は自分では葉巻を吸わず、そばで使用人に吸わせてその香りを楽しんでいたそうです。総理の葉巻の香りをそばで楽しめるという私は…

(あんまり深く考えないように)