国会リポート 第218号

甘利明本人が綴る、毎月2回のコラムです。国政で今何がおきているのか解りやすく解説しています。

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このところ、マスコミから原発の是非に伴うアンケートが頻繁に来ます。各社共通なのは「原発賛成か、反対か」の二者択一です。

そんな単純な話ではないにもかかわらず日本のマスコミは政治家にレッテルを貼り、冷静で科学的な議論を封印し、感情的・エキセントリックな議論へと常に導きます。

過去を振り返れば、消費税の論議・中選挙区から小選挙区制度への論議・郵政民営化・政治主導と官僚主導等々、すべてに政治家にレッテルを貼り「改革派と守旧派」「革新派と族議員」のような図式に持ち込みます。その事が冷静で科学的な議論を封じ込め、狂気を煽るような議論へと扇動していきます。

私が常々思っている事は日本の教育にディベート教育を取り入れるべきだという事です。

例えば、原発は必要か否かというテーマで A グループと B グループが議論し、1時間後に今度は入れ替えて今までと反対の立場でそれぞれが議論をする。その訓練を積んでいけばマスコミ報道に対して『本当にそうなんだろうか?』という客観的なものの見方が一人一人の中に生まれて、反対の立場の情報を探し出し、両方を比べて冷静な判断、あるいは中間的な判断を行う力が身に付いてくる。

日本の教育は教える側の知識や考え方をひたすら吸収をさせるという記憶教育であり、白地から自分の力で考えるという想像性を育んではいないような気がいたします。

日本人自身は生来、想像性に富んでいる国民性のはずなのに、事が起きると一気にマスコミの誘導する方に一色に染まってしまう。行き着くとこまで行かないと冷静な判断ができなくなるという危険性を感じています。

原子力政策で言えば、明日からいきなり原発なしでも何とかなるというメッセージは絶対に発信するべきではないのです。自然エネルギーを伸ばして行こうという点は各党のコンセンサスであるわけですが、要は現状ではコストが高く不安定で何百倍も面積を必要とするこのエネルギーを量産化と技術革新でいかに安く、いかに安定的に、いかに面積を小さくして導入できるかという問題に尽きるのです。

コストは電気料金への上乗せとして国民負担になるわけですから、どの時点でいくらぐらいまでは家計が耐え得るのか、企業の競争力に重大な影響を及ぼさないのか、時間軸で考えていくというのが冷静な議論です。

菅総理は、『新エネ推進』を圧倒的に前倒しをすると発表し、2020年代までに現在の 1% から 12% まで (水力を含む自然エネルギー総計は 20% まで) 引き上げる事を目標にしています。このウルトラ C が実現できたとしても、残りの 80% をどうするかという議論も同時進行していかなければなりません。

石油発電の新規立地は IEA で禁止されており、天然ガスと石炭に依存する事になるでしょうが、CO2 を考えれば天然ガスの高効率コンバインドサイクル発電という結論になろうと思います。

しかし、現状の 25% を 40 - 50% まで引き上げるには資源争奪やそれによる価格高騰、LNG 船の手配等々、極めて厳しい状況が予測されます。だとするならば、その残りは最低限の原子力で賄っていかなければならないという事になり、原子力の安全・安心を更に高めて使用するという選択肢になります。

つまり、エネルギー政策とは中長期をにらんでベストミックスを時間軸でどう作り上げていくかという三次元連立方程式なのです。

マスコミの「シロかクロか」の論議は連立方程式にすらなっていないという事を我々政治家は冷静に語りかけるべきなのです。

『エキセントリックなマスコミや政治家には疑問を持つ。』そういう目を養う事が必要とされます。

 

今週の出来事「おばあちゃんの教え?

 

「自民党は衆議院よりも参議院の方が元気が良い」とよく言われます。

それは参議院では野党が過半数を握っているという事に起因しますが、「自民党の国会対策委員会が参議院の方がより戦闘的だ」という指摘もあります。

その参議院国対の脇雅史委員長は、菅総理が苦手とする質問者を次々と立て、立ち往生させるような質問を矢継ぎ早にさせてきます。

先般、エレベータの中で「大したもんだね。」という話になりました。

「『人が嫌がる事を率先してやりなさい』というのがおばあちゃんの教えですから。」

「…ん?天国のおばあちゃん!あなたのお孫さん、大変な事になってますよ!?」